「クリスマスの贈り物」 マタイによる福音書2:1~12 25:31~40

クリスマス礼拝説教要旨 2023年12月24日       

説教題「クリスマスの贈り物」  マタイ2章1節~12節、25章31節~40節                 

法亢聖親牧師

 本日の聖書に登場する博士たちは、占星術だけでなく幅広い知識を持っていた人々でそれぞれの国の王に仕えていました。彼らは、星に導かれてベツレヘムの馬小屋に着き持ってきた宝物を生まれたばかりの主イエスに献げました。一人目の博士は黄金、2人目の博士は乳香、3人目の博士は没薬を献げました。「黄金」はキリストが王様であることを象徴し、「乳香」はこの幼子が神の子であることを表わし、「没薬」はアフリカ産の植物からとった苦い薬です。そして没薬は、この幼子イエスがやがて苦しみを受けて十字架の上で死ななけ
ればならないこと、つまり救い主としてのキリストの苦しみの一生を表わしています。従って、この3つの宝物(ささげ物)は、イエス・キリストがどいう方で、どのような生涯を送られ、十字架の死の後、復活されるかということを、すでに誕生の時に象徴しています。
 ところが博士は、3人ではなく4人いたという伝説があります。4人目の博士の名はアルタバンです。東方の国々の博士たちは、それぞれの国で星を研究しており、ひときわ明るい星のことを調べた結果イスラエルにメシアが生まれるしるしであることを突き止めます。
そして4人は、イスラエルの近くで落ち合って一緒にそのメシアを拝みに行くことにした
のです。
当時の旅は、現代の旅行と違って命がけの旅でした。交通事情も治安もままならないもの
でした。アルタバンも何か月、何年かかるか分からない旅に出るのに自分の財産を宝石に換えて持って出かけました。そしてアルタバンは、メシアへの贈り物として大変高価な真珠を準備し旅立ちました。ところが旅を続けている途中、病気で苦しむ人を見かけ、医者でもあるアルタバンは、その人を見過ごしにできずにその人の病気が治るまでその人の家に滞在しましたから、3人の博士たちとの待ち合わせ場所に着いた時には3人の博士たちはすでに出発していました。
急いで追いかけてベツレヘムに向かいましたが、時はすでに遅く幼子のイエスは両親のヨセフとマリアに連れられてエジプトに逃げて行かれた後だったのです。アルタバンは、急いで聖家族の後を追いかけてエジプトに向かいましたが、その途中にあった村が大雨のため家々が壊され田畑も作物もみな流されてしまいその村の人々が途方に暮れていました。そこでアルタバンは、村や田畑を洪水から守るために灌漑用水を作ることを村人に教えました。そしてその工事が完成するまで指揮をとり持っていた宝石もだいぶお金に換え工事費用としてつぎ込みました。アルタバンは、その村人を救い村人から惜しまれながらエジプトに向かいました。
エジプトに着いて聖家族の消息を尋ね歩いたところ、すでに聖家族は、イスラエルに帰国していることが分かり、アルタバンはイスラエルに向かいました。それから主イエスを訪ねるアルタバンの旅も30年もの歳月がたち、もうアルタバンはかなりの老人になっていました。「ゴルゴタの丘で、イエスと言うお方が十字架につけられたぞ」と言う大きな叫び声が聞こえました。アルタバンは、よろよろよろけながらゴルゴタの丘に向かう途中、借金のかたに奴隷に売られそうになっている少女に出会い、最後まで持っていた大きな真珠を父親に渡し娘を売らずに済むようにしました。おりしも主イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から2つに裂けて、地は震え、岩は裂けたと聖書に書かれていますが、老人のアルタバンは、倒れてきた柱の下敷きになりました。その時、イエス・キリストが現れたのです。アルタバンは喘ぎながら息も絶え絶えに主に向かって言いました。「イエスさま遅すぎました。わたしはあなたが生まれることを告げる星を東の国で見た日から今日まで30数年、あなたをずっと探してきました。ベツレヘムでもお会いできなかったし、エジプトでも見つけることができなかった。そしてそれからの私の生涯は貧しい人、生活に困窮している人たちを助けるために費やされました。そして今日あなたにお会いできる最後のチャンスにも関わらずそのチャンスを逃してしまいました。あなたにお会いしたい、その時にお渡ししたいと思って最後の最後までとっておいた真珠も、今はありません。ですから私にはあなたに差し上げる贈り物はなくなりました。どうぞお許し下さいませ」。
すると主イエスは、とてもやさしく、アルタバンにおっしゃいました。「アルタバン、わたしはお前に、何度も何度も会ってきたのだよ、そしてお前の真珠はわたしがしっかりともらっている」と。4人目の博士アルタバン物語は、これで終わりですが。最後の主イエスの言葉は、マタイ福音書25章40節の主イエスの天国のたとえの中のお言葉です。
「すると、王は答えていうであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのである』。」(マタイ25:40)
 この主イエスのお言葉は、真実で昔も今も、永遠に変わることはありません。人間の言葉や約束は、えてして嘘になったり、約束が破られたりします。しかし、主イエスは、そうではありません。ですからクリスマスに主イエスに差し上げるプレゼント、主イエスが一番お喜びになられるものは、私たちが直接に黄金や乳香、そして没薬を差し上げることではなく、4番目の博士アルタバンのように一生の間主イエスを探し求めながら、私たち一人一人が持っている“真珠”を出会う人への親切、思いやりを通して主イエスに差し上げることなのだと思います。
 真珠は、阿古屋貝に異物を入れて造られます。アコヤガイは、異物が入って来てもそれを吐きだそうとせずに自分の分泌物でそれを覆い人に喜ばれる美しい真珠を造りだすのです。私たちの深谷教会もそうしたアコヤガイのようなあたたかな教会形成をしていければと
思います。
 
補足 アコヤガイは、もともとウグイス貝科ウグイス目でしたが、愛知県の知多半島の阿古屋で取れた真珠を阿古屋玉(真珠)と呼んだことから阿古屋貝(アコヤガイ)と呼ばれるようになりました。

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